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名古屋地方裁判所 昭和44年(ワ)891号 判決

原告

安部五郎

代理人

古井戸義雄

村瀬尚男

被告

有限会社ダイハツ号西部販売所

代理人

伊東富士丸

河上幸生

柴本克也

主文

一、原告の請求を棄却する。

二、訴訟費用は原告の負担とする。

事実《省略》

理由

一事故の発生〈略〉

二原告の受傷及びその治療経過と後遺症

〈証拠〉によると、原告は当時六四才であつたが本件事故によつて原告主張の傷害を受け原告主張の期間入院、通院して治療をした結果一応治療したが原告主張の後遺症(両側高度神経難聴、右視力障害=昭和四四年三月五日に認定を受けている)を残していることが認められる。

三被告の責任〈略〉

四示談成立の抗弁に対する判断

〈証拠〉を総合すると次の事実を認めることができる。

被告は〈中略〉原告が早く示談をしたいと申出たのでこれに応ずることにし、被告の契約している任意保険会社の係員と相談した結果、治療関係費以外の損害を一六万円とするのが相当と判断した。そこで、原告の退院の二日後である昭和四三年一二月一二日原告を被告方に招いて右賠償額を示したところ、原告がこれに同意したので前記保険会社の係員が文面を作成した本件示談書に双方が署名、捺印し、被告側は原告に対し既に支払つた前記一〇万円を差し引いた残額六万円を支払つた。その際出席したのは原告側は原告一人で、被告側は被告の取締役上田好(現代表取締役)、被告の社員一名、前記保険会社の係員の三名であつた。当時、原告自身は前記聴力、視力の障害が進行しているのをある程度自覚していたが、被告側は、原告がこれを告げなかつたのと原告から事前に交付を受けた診断書には後遺症についての記載がなかつたために、後遺症のことは全く念頭におかずに本件示談に応じた。その後、原告は前記のとおり昭和四四年三月五日に至り後遺症の認定を受けたので、その旨の記載のある診断書(甲第一号証)を被告側に持参して善処を求めたが、話し合いが進行しないまま本件訴訟提起となつた。

これらの事実を検討するも、原告主張のような錯誤等本件示談を無効とすべき事由はなんら発見できない。したがつて、本件事故につき原被告間において本件示談書の文面どおりの示談が成立したというべきである。もつとも、その文面には「今後本件事故についてどんな事情が生じましても裁判上、裁判外においても一切異議を申立てません。」と記載されているが、この文言をもつて直ちに原告は被告に対し文字通り示談後に生じたいかなる損害をもいつさい賠償請求できないと解することはできない。なぜならば、示談後に当時予想もしなかつた後遺症が現われた場合は一度示談したにもかかわらず後遺症に基づく損害を賠償請求できると通常解されており、又、右のような権利放棄条項が形式的に存在しても周囲の状況から考えて当事者双方が後遺症に基づく損害を除いて示談したことが明白な場合は、後遺症に基づく損害は示談した損害とは別途にあらためて請求し得ると解し得るからである。特に、本件のように権利放棄条項が予め印刷されている定型的示談書を用いて示談した場合、このように解釈し得る余地がある。ところで、本件においては、原告自身が前記のように当時ある程度症状の悪化を自覚しており、前記のような後遺症が残存することを十分予想し得たと解されるし、又、双方が後遺症に基づく損害は除くという明示的な合意のもとに本件示談をなしたとはみられない。しかしながら、本件示談が成立した時期、原告の治療経過(昭和四四年二月末まで通院治療を受けている)、後遺症認定の時期、後遺症が比較的重症であること、それに比較すると示談額がかなり低額であること、これらの事実に本件示談書の権利放棄条項が不動文字で記載されていることをも併せ考えると、原告は後遺症に基づく損害についてはこれを留保したまま本件示談に応じたと解するのが原告の合理的な意思に合致するというべきであり、被告としては前記のとおり後遺症の存在は全く念頭になく本件示談をなしたのであるから、後遺症に基づく損害については双方の間にいまだなんらの合意もできていないというべきである。すなわち、本件示談の権利放棄条項は後遺症に基づく損害以外の損害についてのもので後遺症に基づく損害に対してはその効力は及ばないと解すべきである。

したがつて、被告の示談成立の抗弁は後遺症に基づく損害の賠償請求については理由がないことになる。〈以下略〉

(西川力一 藤井俊彦 岩渕正紀)

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